2013年6月24日月曜日

誠実さ(Sincerity)に欠ける日本人たち


私は物心ついた時から自分に正直に生きて生きてきたつもりである。
嫌なことは嫌だと言って、間違ってることは間違っていると言って来た分、随分と損な人生を送って来たようにも思えるけれど、自分の感情や意見を人に強制させられるぐらいならその方がマシだと思って生きてきた。
特に日本の様なハイコンテクストかつ集団主義を重んじる社会では、納得いかない事柄に関しても「そういうもんだから」とか「今までそうやってきた」等の理由で議論すらを拒否されることが数多くある。 

中学生の頃、英語のテキストの中でSincerityという言葉に出会った。辞書には「誠実」との訳。
当時は何の疑問も持たずSincerity=誠実と丸暗記していたけれど、英語を通し英米の文化を学ぶにつれ、それは日本における誠実という意味合いからは掛け離れているものだということを理解した。
掛け離れているのも当然、日本語という言語にSincerityに近い言葉は存在しなかった。最も近い言葉が「誠実」であるためそれが便宜上訳語に用いられているだけだ。(もっとも全ての言葉がそうなのだけれど)

 その違いを辞書の定義を見ながら説明してみよう。 まず誠実という言葉を国語辞典で引くと以下の定義が出てくる。 
 せい‐じつ【誠実】 [名・形動]私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。「―な人柄」 

  一方で、Sincerityの定義はおおよそこうである。 
  sin·cer·i·ty [sin-ser-i-tee]noun, 
 "freedom from deceit, hypocrisy, or duplicity; probity in intention or in communicating; earnestness. "
 (欺瞞や偽善、二枚舌からの自由な状態。コミュニケーションにおいて正直で真剣な意思があること)

もっと分かりやすい定義で言えばこうである。
 "Sincerity is the virtue of one who speaks and acts truly about his or her own feelings, thoughts, and desires."
 (自らの感情、考え、希望について何ら偽りもなく話すという美徳) 

誠実という言葉が私利私欲をまじえず、つまり自らの感情や意見をこれ見よがしにひけらかさぬという点が主要なポイントになっているのに対して、 Sincerityという言葉は何がどうあろうと自らの思った事を話すという点に主眼がおかれている。
つまり、誠実という言葉には「彼は接客中 客に暴言を吐かれたが、誠実に対応した」といった様に、自らを押さえながらも 平常心を保ち真面目に物事に打ち込むというニュアンスがあるのに対し、 Sincerityには「彼はクラスメイト全員から非難されたが、自分の気持ちに誠実であった。」 などという様に、例えそれが間違いでも悪いことでも自らの心情に正直にいるという美徳こそがSincerityの胆そのものなのである。誠実という言葉とは正反対と言っていいほど掛け離れている概念であることが分かるだろう。

 私はこの概念を知ってからより強く自分にSincereでいようと心に決めた。 会社で半ば強制的な飲み会に誘われようとおかしいと思えば断るし、お酌はしたくないからしない。 お酌をすることが、自分に対する裏切りであり、偽善であるからだ。 例えお酌をしないことでいくら暴言を吐かれようとも、自分の心にもっと正直に生きることが、自分にとっての幸せだと感じている。 日本語にはこのSincerityという概念が存在しないため自分をないがしろに生きがちだが、 日本人はこの概念を理解し自分の為に生きる人がもっと増えても良いのではないだろうか?もっと自分を犠牲にせず、正直に、人に迷惑をかけても自分に誠実に生きるべきなのではないだろうか?
「人に迷惑をかけないように生きる」という日本のお決まりのフレーズよりも、「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから人を許しながら生きなさい」というインドの諺の方が身にしみる。

明日からももっと自分に正直に生きたい。 

(画像訳:君がどんなにこの二匹のクマが愛し合っていると"誠実"に思っていても、君は間違っている。例え君が"誠実"でも。だってクマは生きてないから。)